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平成16年から二人の息子をシングルファーザーとして育てました。こどもたちとの時間をもっと大切にしたいと考え、11年間勤務した銀行を退職。仕事と子育てをしながら、PTA活動や地域活動に参加しました。 また平成27年には、「長沢に人々が集いつながる場所を作りたい」という想いで『コミュニティカフェ てとて』をオープン。

平成30年5月に再婚。妻と2人の息子の4人家族となりました。

地域の課題やこどもに関わる諸問題を解決するためには、シングルファーザーの経験、保育士としての知識や経験を活かし、市議会議員として活動することが、一人でも多くの方に喜んでいただけると考え、市議会議員を志しました。

かがみ まさひこ(各務雅彦)

出身川崎市多摩区南生田
自宅川崎市多摩区長沢
生年月日昭和45年5月24日生
血液型A型
趣味旅行
家族妻・息子2人
経歴・資格元銀行員・保育士・保護司・放課後児童支援員
所属長沢お囃子保存会会員
かがみまさひこ プロフィール

経歴

昭和58年3月川崎市立南生田小学校卒業
昭和61年3月川崎市立南生田中学校卒業
平成元年3月日本大学櫻丘高等学校卒業
平成5年3月日本大学文理学部社会学科卒業
日本大学アメリカンフットボール フェニックス
平成5年4月三和銀行(現三菱UFJ銀行)入社
平成16年6月UFJ銀行(現三菱UFJ銀行)退社
平成27年8月特定非営利活動法人ままじねっと代表理事就
令和元年5月川崎市議会議員(多摩区選出)当選

かがみまさひこマイヒストリー

多摩区生まれ多摩区育ち

私は昭和45年5月24日、
川崎市多摩区南生田の
自営業の家庭に生まれました。
生まれも育ちも多摩区です。

家族はとにかく怖い父と、
何でも自由にさせてくれる母、
7つ上と5つ上の姉、そして末っ子の私。
たまに中性的だと言われることがありますが、
それは姉たちの影響だったかもしれません。

目立ちたがり屋の野球少年

小学生のころは野球少年。
同級生より体格が良かったので、
漫画「がんばれ!!タブチくん!!」のイメージですね。

校庭で野球したり、墓地で遊んだり、
友だちと外を駆け回る活発な少年でした。

性格は目立ちたがり屋。
学芸会の主役には率先して手を挙げるタイプで
「バカ殿様」の役をやったことを覚えています。
みんなが土曜の8時にドリフを観ていた時代でした。

学級委員はほぼ常連。
卒業の時にみんなからもらった
メッセージカードに書かれていたのは
「責任感が強い」という言葉。

大人になってからこのカードを読んだとき、
自分では特別なことをした思い出はなかったけれど
みんなにそう思ってもらえていたことが
すごく嬉しかったです。

あまり覚えてないけれど、
この時代が一番モテたし、自分らしく生きていたと思います。

かがみまさひこ小学生
かがみまさひこ小学生
かがみまさひこ小学生
かがみまさひこ小学生

自我に目覚めた『ナウい』中学生時代

野球を続けようと思っていたら、
入学した中学校には野球部がなかったので
バレーボール部に入りました。

当時、河合俊一さんが大人気で
ミーハーな気持ちで選んだら、チームは弱小。
公式戦では一勝もできませんでしたが、
3年生の時にはキャプテンでした。

一緒に入部した幼なじみもちょっとグレてしまいましたが、
それでも練習には来てくれていて、
今思えば
真面目な部員とちょいワルな同級生部員を
つなぐ役割もできていたのかなと思います。

中学に入ってからは、すっかり自我に目覚めて、
目立つことがすごく恥ずかしくなりました。
人目を気にするようになったのでしょうね。

しゃれっ気づいて
マッチ(近藤真彦さん)の髪型を真似てみたり
町田の「マルカワ」に
雑誌Popeye系の洋服を買いに行ったり、
「ナウい」感じの中学生でした。

3対3とか、5対5くらいで
「グループ交際」するのも流行っていて、
向ヶ丘遊園やよみうりランドに
遊びに行ったのも懐かしい思い出です。

アメフトに出会った高校時代

高校は
「女子がいない男子校には行きたくない」
という少し軽い理由で別学を選び
日大櫻丘高校に入学。

本当は中学の先輩でもある
今駒憲二選手に憧れて
ラグビーをやりたかったのですが、
ラグビー部がなかったので、
アメフト部に入りました。

クラスは男女別学の高校でしたが、
部活では女子のマネージャーがいたし、
アメフト部には専属のチアリーダーがいました。

ポジションは「オフェンスライン」。
オフェンスなのに、ボールは触らないし
得点することもないので一見地味ですが、
なくてはならない、まさに“縁の下の力持ち”。

顧問の先生が、体格や性格を見て決めたのですが、
性に合うポジションで、プライドも持っていました。
アメフトをやめる39歳まで
ずっと同じポジションだったので、
顧問の先生の眼力はすごかったなと思います。

ザ・体育会の強豪校だったので、
試合で修学旅行も参加できませんでしたが、
アメフトとの出会いは
人生の大きな転機のひとつです。

ちなみに…
女子マネージャーとお付き合いしたり、
ディズニーランドでデートしたり、
良い思い出です。

“120%アメフト”の大学時代

推薦試験を受けて日本大学文理学部に入学。
高校時代に成し遂げられなかった「日本一」を目指して
「日本大学アメリカンフットボール部 フェニックス」に入部しました。

下級生のころは、朝からグラウンドに出て
午後3時に始まる練習の準備。
練習は、厳しい上下関係のもと、連日8時間に及び、
ぶっちゃけ、授業にはほとんど出られませんでした。

4年生になると全員が合宿所に住み、
監督と風呂に入る「当番」があるような環境。

「NO」という選択肢はなく、
負けないチーム作りのために
「今与えられた環境で最善を尽くすには
どうしたらいいか」ということを
常に考えていました。

体力、精神力、チームワーク、そして気遣い。
ここで得た経験は
今の自分にとって大きな糧になっています。

銀行員になり結婚するも離婚、子連れで夜逃げ

かがみまさひこ 銀行員

大学卒業後は三和銀行(当時)に入社。
消防士になりたいという思いもあったのですが、
大学の先輩に声をかけていただいたこともあり、
アメフト部がある銀行に勤めることにしました。

社会人3年目で
大学時代からお付き合いしていた女性と結婚し、
息子が2人生まれました。

平日は夜遅くまで仕事、土日は家族を連れてアメフトの練習。

そんな生活を10年近く続けた34歳の時、
妻から突然、離婚を言い出されました。
青天の霹靂でした。

精神不安定な妻からとっさに「息子たちを守りたい」と、
寝ている子ども2人を連れて夜逃げ。
3人暮らしを始めました。

子育てメインの人生にシフトチェンジ

離婚

当時息子たちは小学2年生と5歳。
上の子は寂しいと言ったことがありません。
離婚後しばらくは下の子は、私の胸を触りながら寝付いていました、

子どもたちに寂しい思いはさせたくないと、
11年間勤めた銀行を辞め、
しばらくの間育児と家事に専念しました。
子育てメインの人生へシフトチェンジです。

PTA活動にも積極的に参加しましたし、
料理は得意な方なのでキャラ弁も作りました。
そんなにしゃべらないけれど、
愛情は行動で示してきたという自負はあります。

息子たちと助け合いながら生活した時間は
かけがえのない経験でしたが、
一人で子育てすることの大変さや悩みも、身をもって実感。

「お母さんがいる4人家族」にしてあげたくて
再婚しようと思ったのですが、
子連れで結婚する難しさにも直面しました。

コミュニティカフェで人と人をつなぐ

子育てをする中で
子どもたちを地域ぐるみで育てる仕組みや
ママさんたちを支援する場所が必要だと
思うようになりました。

そこで、実家の一角に
コミュニティカフェ「てとて」をオープン。
NPO法人「ままじねっと」も立ち上げました。

公共施設のない地域だったので、
情報と人の集まる場所にしたいと、
ママたちのランチ会や
さまざまなワークショップを開催したり、
寄席やLIVEをやったり、
知り合いの方同士を紹介してつないだり、
コミュニティを作るための活動は何でもしていました。

またその頃に「学童保育」の必要性を感じて
放課後児童支援員になろうと保育士の資格を取り、
縁あって保育園の立ち上げにも関わることができました。

大学教授の言葉に、雷に打たれたような衝撃が走る

こうして、
街のお困りごとを解決するような存在になりたいと
いろんな活動をしていたら、ある大学教授に言われたんです。

「カフェのオーナーや
 NPO法人の代表理事よりも、
市議会議員という立場で活動した方が
 結果を出せるんじゃないですか?」と。

雷に打たれたような衝撃が走りました。
そうか、議員になれば成果が出て
もっと多くの人に喜んでもらえるのか!

それまで全く政治には興味がなく、
お恥ずかしながら
選挙もあまり行かないような人間だったので
議員なんて自分の中にはない選択肢でした。

なので、
国会議員さんをご紹介いただき、
「市議会議員選挙に出てみませんか?」
と、お話をいただいた時も、最初はお断りしたんです。

でも、なぜか帰りの電車の中で
心がざわざわ、ワクワクし始めました。
小学校の時の学級委員をやる時と似たような感覚です。
急に「やりたいという」気持ちが湧いてきて
やっぱり挑戦してみようと心を決めました。

「議員っぽくない」イメージで当選

かがみまさひこ「議員っぽくない」イメージで当選

選挙は全くの素人だし、誰かの後継候補でもない。
選挙活動はゼロから手弁当で始めました。

ポスターの写真はエプロン姿。
カフェの店員さんですか?とか、
木工職人さんですか?とか、
タンクトップかと思ったというご感想もあり、
イメージ戦略は難しいです。

でもその「議員っぽくない」イメージが
逆に支持されたのか、
2019年の統一地方選にて6499票をいただき、
落選するだろうという大方の予想を裏切って、
川崎市議会議員(多摩区選出)に初当選しました。

「やっとやりたいことができる」
小学生の時の自分を取り戻した気がしました。

「自ら動く」は誰にも負けません

市議会議員になったからといって、
急にスーパーマンのように
課題を解決できるようになるわけではありません。

私にできることは「自ら動く」こと。
課題を解決するために、市に働きかけるだけでなく
民間の力もお借りしながら、解決できる方策を探っています。
毎日の地道な活動は誰にも負けない自信があります。

正直、立場が変わっただけで
根本はコミュニティカフェの時代と同じ、
人と人とをつなぐ役割です。

例えば「生理の貧困」問題。
市に予算つけてほしいと要望するだけでなく、
まず自分ができることから取り組もうと
寄付活動をしている団体と
市の教育委員会や大学をおつなぎしました。
実際に生理用品の寄付活動が始まっています。

また、他にもコロナ禍で生活に困窮する
学生さんに向けた食糧支援の取り組みや、
地域のマルシェの企画・開催など
地元の方々のご協力・ご協賛をいただいて
活動できることに心から感謝しています。

寄り添って一緒に行動する「お困り事解決マン」になる

課題やお困りごとを解決して
たくさんの方に喜んでもらいたいと思っています。
ご要望いただいたことに対しては120%の動きをしたい。

寄り添って、一緒に行動する、
「お困り事解決マン」になりたいんです。
「お節介ジジイ」かもしれませんが(笑)

「市に要望しましたがダメでした」
だけで終わるのではなく、
実現するかどうか分からないことでも、
前に進むために
一緒に動くことが大事だと思っています。

好きな言葉は「唯一無二」

令和5年2月5日に実施された第35回社会福祉士国家試験に合格しました。
もともとは児童虐待をなくすために
どうすればいいかと調べていた時に
この資格を知ったのですが、
学び始めたら
「社会のさまざまなリソースを使って
 お困りごとを解決する」という点で
今やっている活動と内容がかなりリンクしていたんです。

でも、
もともと社会福祉士で議員になる人はいても
議員になってから
社会福祉士の資格取る人ってほとんどいません。

私の好きな言葉は「唯一無二」。

他の人がやっていないこと、初めての取り組み、
新しいことが好きなんだと思います。
だから人生がジェットコースターみたいに
なってしまったのかもしれませんが…。

そうそう、
他の人がやっていないこととしては、
「選挙」のやり方も変えたいです。

まずは
当たり前のように行われている
「はがき」や「電話」作戦はやらない。
選挙カーの使用時間は減らす。
そのあたりをお約束したいと思っています。

家族に感謝

5年前、たまたま子どもたちが巣立ったタイミングで
ご縁があり、再婚しました。
私の活動も理解してくれて、とても感謝しています。

心配と迷惑をかけ続けた母親も、
直接は何も言わないけれど、
「いい奥さんを見つけた」と喜んでくれている
という噂を聞きました。

今はトイプードルのカノンくんと3人
笑顔で暮らせていることが、本当にありがたいです。

読んでくださったあなたに感謝

長い長いストーリーを、読んでくださってありがとうございます。
読んでいただいた通り、
私は人と人とをつなぐことが得意な、普通のお節介おじさんです。

「議員さんっぽくないですね」
私にとっては最高の誉め言葉かもしれません。

少しでも議員のイメージが変わって、身近に感じていただけたらうれしいです。

誰に相談していいのか分からないお困りごとがありましたら、いつでもご相談ください。
嘘はつきたくないので、「必ず解決する」とは申しません。
でも、あなたに寄り添って、一緒に動くことはお約束いたします。